ブラッドリー『仮象と実在』 239
[有限な知識は力において様々であり、変更しうる。]
有限な真理は、すべて未知のものに依存しなければならないので、条件的である。しかし、この未知のものは――読者はここで心得ておかねばならないが――単なる相関的なものである。それ自体絶対的な知識に従属し、それに含まれている。その本性は、一般的に、未知のものでないのは確かである。というのも、それがなにものかであるなら、経験であり、一つの経験の一要素だからである。我々の無知は有限性のおかげで、絶対的な無知ではない。我々が知ることができる以上のものを多く含むが、この「以上」は、同一種類のものとしてあらかじめ知られている。我々はここで有限な真理の特殊な考察からはじめねばならない。(1)
*1:(1)矛盾にある場合、我々が知識をいかにして正すことができるかどうかという問題はここで十分に扱うことは不可能である。我々は無限に経験を拡大することを強いられるが、それ自体有限であるものは調和的であることができないからである。そこで我々は一方においてある種の事実や観念の衝突を見いだし、他方において、認知された知識を認める。さて、自己矛盾は真ではあり得ない。問題はいかにして調和的にそれを再配列するかである。与えられた事例において、どれを犠牲にしなければならないのだろうか、と我々は問わねばならない。矛盾そのものはおそらくあらわれだけのことである。単なる偶然事が本質的なものと取られるかもしれないが、間違いを正すことで、すべての矛盾は消え去るだろう。あるいは、新鮮な観念は支持できないものと見られてきたかもしれない。それは誤りを含み、それゆえばらばらに分解する。あるいは、もしそれが可能でないなら、暫定的にある場所に置かれ、無視されることになろう。しかしながら、この最後の過程は、我々の本来の知識がしっかりしており、揺るぎないものであることを仮定したときにのみもっともらしいものとなる。しかしその反対が実情だといえる。以前の知識は立ちゆかなくなり、新鮮な経験によって変更され、打ち負かされることもあるに違いない。しかし、最終的には、さらなる可能性が残る。知識の矛盾する断片は真として定まることはできない。それぞれはある目的のために、ある程度のレベルまでは満足させ助けになるほどには真であるかもしれない。だが、上述の観点からすると、どちらも相争う間違いと見られ得る。それゆえ、両者ともある点まで分解され、より広い全体の諸要素として再配列されねばならない。本質と偶然を分離することは、本質そのものが多かれ少なかれ分解されるまで実行されねばならない。この一般的な見解を説明し、例示しようとする余裕がない。