レイモンド・ウィリアムズ『マルクス主義と文学』 1

【これも多分三分の一くらい。】

 

I.基礎概念

 

1.文化

 

 現代の思考と実践の主要な領域のちょうど中心にあるものとして常に記されているのは「文化」という概念であり、様々な変化と複雑化を経ることで、論点としてだけでなくその発達を通じて直面してきた諸矛盾を体現するものとなっている。この概念は、その形成において極端に異なった経験と傾向を融合しかつ混同している。そこで、この概念についての自覚なしには、重大な文化的分析を実行することは不可能である。自覚というのは、後に見るように、歴史的なものでなければならない。豊富な理論が発達し、十分な実践が積み重ねられているように思われるものの前でのこのようなためらいにはやっかいで、不作法とさえ言える根源的な疑いがある。それは、文字どおり危機の瞬間であり、経験の衝撃、歴史感覚の断裂である。決定的で有効だと思われたものから引き離され――そこに差し込まれていたものが重大な議論の的となり、利用できるはずの入り口がすぐさま実践で働きかけるべき場となった。この洞察を封印することはできない。もっとも基本的な概念――よく言われるように我々は概念から始める――が突然、概念ではなく問題として、分析的な問題ではなくいまだ未解決な歴史的運動なのだと見られたとしても、鳴り響く召喚の声や反響する衝突の音を聞き取るような感官など存在しない。我々ができるならするべき唯一のことは、その形式が投げ捨てた内実を取り戻すことだけである。

 

 社会、経済、文化。これらの「領域」はいずれもいまでは概念の標識がつけられているが、比較的最近にできた歴史的な定式である。「社会」というのは、一般的な組織や秩序を記述するものとなる前は、活発な仲間意識、交友、「共通の仕事」のことだった。「経済」は、生産、分配、交換として認められる前は家計のやりくり、共同体の運営のことだった。「文化」は、意味の変遷がある前には、農産物や動物の成長や育成のことであり、その意味が広がって、人間の能力の成長や育成のことになった。その現代の発達において三つの概念は段階をおって移行したのではなく、それぞれが決定的な地点において他の運動から影響を受けた。少なくとも、そのようなものとして我々はその歴史を見ることができる。しかし、真の変化の過程においては、新たな観念が導入され、それがある程度固定されることは常に複雑で、ほとんど前例のない経験であった。「社会」をその直接的な関係に力点を置いて受け取ることは、過去から受け継いだ、課されたものとも見ることのできる秩序、つまり「国家」の形式的固さに対して意識的に別の方向を示すことだった。「経済」を運用に力点を置いて受け取ることは、必要なだけではなく与えられたものと受け取られる活動体を理解し支配しようとする意識的な試みであった。各概念は変化する歴史と経験と相互に影響しあっている。その本質と直接性から選択された「社会」、「国家」の形式的固さとは区別することのできる「市民社会」が抽象的で体系的になることもある。「社会」が最終的に排除するに至る直接的なものには新たな記述が必要となる。例えば、「個人」はかつては分割できないもの、あるグループの成員を意味していたが、「個人」と「社会」というように異なっているばかりでなく対立する言葉に発達してきたのである。それ自体、そしてそこから派生した限定的な意味においては、「社会」はいま我々が「ブルジョア社会」として要約するような経験の定式化である。封建的な「国家」の固さに対立する活発な創造。この種の創造の内部での問題や限界は、逆説的に、その当初の衝撃とは区別され、対立さえすることになる。同様に、生産、配分、交換の体系を理解し支配する手段としての「経済」の合理性は、新たな経済体系の現実の制度との直接的な関係においても存続するが、それが直面する問題そのものによって制限を受けた。合理的制度や支配の生産そのものは(「変化しない」)物理的世界の法則のような「自然」、「自然経済」として提示された。

 

 現代の社会思想のほとんどはこうした概念から始まり、過去から受け継がれた形成のしるしや未解決な問題は当然のものと見なされた。そこで、「政治的」、「社会的」あるいは「社会学的」、「経済学的」思想があり、それらは実体として認められる「諸領域」を記述するものと信じられている。そして、ときには不承不承ではあるが、もちろん他の「領域」のあることが通常はつけ加えられる。目立つものとしては「心理学的」そして「文化的な」領域がある。しかし、無視するよりは認めた方がいいこととして、通常は、それらの形式が実際には始めに概念が形成されたときの未解決の問題を受け継いでいることが認められていない、ということがある。「心理学」は(「心理学的に」いって)「個人的」なものなのだろうか、それとも「社会的」なのだろうか。この問題は、「社会的」と呼ばれるものが「社会」の支配的な発展においては未解決のままに残されていることが気づかれるまでは適切な規律のもとで論議されるものとはなり得ない。「文化」は「芸術」として、「意味と価値の体系」として、あるいは「生のあり方」として理解すればいいのだろうか、そしてそれらは「社会」や「経済」とどのように関係しているのだろうか。こうした問題は問われなければならないが、「社会」や「経済」という概念に固有の問題、「文化」のような概念がその語の抽象化や限定によってどのように伝えられたかという問題を理解しない限り、我々はそれらに答えられそうにもない。