ブラッドリー『論理学』41

 §52.この実在の性質は判断においては明らかにされておらず、仮言判断では隠された潜在的なものである。結果からそこに存在することを知るが、それがなんであるかを言うことはできない。更なる探求を経なければ、要素もその間の関係も非常に異なった別の判断で認められたものと同じものかどうかさえ見分けることができない(第三章§19参照)。そして、探求を更に進め、こうした性質は我々の判断の基盤にあるもののようだが、<常に>隠されているのだろうか、それともこの種の判断でだけ隠されているのだろうか、と問うと、再び難解な問題に足を踏み入れることになる。確かに、一方において、我々はそうした判断の基盤となるものを見いだすことができ、それは<比較的>明瞭である。しかし、そのことは、結局そうした性質というのは隠されたものであることをやめるのだろうか、という疑問に我々を近づけるだけである。実在の性質と言えるような判断の基盤を我々は得ることがあるのだろうか。あるいは確実に真であるがその要素も要素の関係も実在に関して真ではない究極的な判断と共に残されるのだろうか。結局、我々が総合の土台にあると知っている性質は常に未知のままにとどまり、隠されていると言わねばならないのだろうか。ここで尋ねられているのは、形を変えた解釈の限界に関する問題であり、その追及は形而上学の仕事であるので、このくらいで中断しなければならない。

 

 §53.仮言的判断が肯定するのは、その帰結の基盤となる性質に過ぎないことを我々は見てきた。そして、あらゆる抽象的普遍は仮言的である。ここで次のように問える。二つは同じことなのだろうか。あらゆる仮言的判断は普遍的なのだろうか。

 

 仮言的判断が関わる実在がしばしば個的なものであるために、これは疑わしく思える。このことを考えるため、そして次の節のためにも、いくつかの例を挙げておこう。「もし神が公正なら、不正は罰せられるだろう。」「歯痛がしたら私は惨めだ。」「この部屋にろうそくがあったら、照らせるのに。」「いま六時なら、一時間以内に夕食をとろう。」「この男がこの薬を飲むと、二十分以内に死んでしまうだろう。」こうした判断が「あらゆる人間は死ぬ」というのと同じくらい普遍的だと聞いたら驚く読者もあるだろう。しかし、私はまさしくそうなのだと考えている。

 

 第一に、これらの判断のどれも実際の実在を主語としていないことは確かである。我々は公正な神が存在するとも、歯痛がしているとも言っていない。ただ仮定しているだけである。主語は仮定されており、更に考えを進めるなら、主語は観念内容以外の何ものでもなく、主張されているのは形容のつながりでしかないことが認められよう。「あれ」、「これ」、「私」、「いま」は実際には仮定に入り込んでいいものではない。それは我々が観念の実験を当てはめる実在の地点であり、それ自体はどんな場合でも<仮定>はされない。仮定で用いられるその内容が多かれ少なかれ、それは主語として入り込む。それがなければ、その内容を個的なものと呼ぶことは不可能になる。