ブラッドリー『論理学』58

 §5.このことからそれに対応した間違いに移ることができる。肯定判断が否定において前提とされているというのが間違いなら、述語だけが影響を受けるのだから、否定そのものは一種の肯定であるとするのも同じように間違いであろう。後でこの教義にある真理を見ることになるが、ここで仮定されているような形では我々には受け入れることができない。ある種の性質をもつ事実によって排除を行なうことは特殊な表現を要求する過程である。そして、「AはBではない」を「Aは非Bである」に置き換えることで問題を単純化するように求められても、明らかな難点を見いだすだけである。Aが非Bを受け入れることを知るためには、AがBを排除することをあらかじめ学んでいなければならないのではないか。もしそうなら、我々は最初に否定することによって否定を肯定に還元し、それから否定していることを肯定することになる。この過程が適正であることは間違いないが、還元や単純化とはとても言えないだろう。

 

 §6.我々が後に(§16)非Bを独立した述語として用いるときにも更なる反対が起るだろう。しかし、ここではもう一つの誤りの基盤となっているものを明らかにせねばならない。否定は「繋辞にだけ影響を及ぼす」と言われる。最初にそれがなにを意味するのか尋ねる必要がある。それが言った通りのことなら、繋辞が欠けていることもあるので、これをすぐに退けることができる。肯定的に「狼だ」と言うときにも繋辞は存在しないし、否定的に「狼じゃない」と言うときにも繋辞はない。しかし、それが意味するのが、否定と肯定とがあるレベルにある判断の二つの種類だというなら、その発言を修正する必要がある。こうした二つの異なった種類の判断が存在することはまったく正しい。肯定判断は主語を性質づけ、否定判断は同じ性質を排することで主語を性質づける。かくして我々は二種類の肯定的関係を得る。しかし、それを同じレベルに置くとき、間違いが生じる。否定の条件として既に総合を仮定していなければならないというのが正しいだけでなく、加えてもう一つの反対意見がある。否定の真理というのは最終的にはある性質の肯定にあると見ることができる。それゆえ、肯定と否定は同じレベルに立つことはできないのである。「AはBではない」における真の事実とはAに属し、Bとは両立できない性質xである。否定の基礎にあるのは、実際には、<(x)を排除するある性質>の肯定である。それは、既に我々が見たように、単なる排除の性質(非B)の肯定ではない。