トマス・ド・クインシー『スタイル』34

 公的生活のよく知られた事例において、精神の主観的働きと客観的働きの相違を探るために逸脱をした。一方から他方へ突然に移ることは弁護士が議員のように振る舞う誤りである。一度でも事実や自らでたのではない証拠の覚え書きや適用に、歩行練習機を使う子供のように頼っている弁護士は、そうでなければ活用できた内的資源に対する支配力を失っている。実際、要約を前にした弁護士はまさにスピーチの下書きや覚え書きを帽子に入れた初級の語り手の状態にある。この詐術は時々行われる。こうした帽子の覚え書きが突然吹き飛ばされたときの弁者の狼狽はまさしく<巡回裁判所>の弁者が議会に始めて足を踏み入れたときのものである。彼は常に浮き袋を使って泳いでいた。突然それなしに泳がねばならないのである。

 

 このことがなぜ主観的な研究分野がスタイルの開拓にいいかを説明する。完全に精神から独立した外的なものは一般的に言って発言内容そのものと同じである。測定することのできる事実や外的根現実はほとんどどんな言葉でも理解可能である。それらは自らを説明し、自律的である。だが、精神が内的なもの、その感受性における個別的なものに密接に結びつくようになればなるほど──つまり、哲学的にいう<主観性>に結びつくほど──まさにその度合いに応じてスタイルあるいは思考の具体化したものはより繊細に、単なる装着可能な装飾物ではなくなり、以前にも言ったように表現が内容と合流することになるのである。このように言うことは、以前この主題についてワーズワース氏から聞いたことを形を変えて言っているのである。彼の言葉はスタイルについて言われたことのうちで最も重みのあることだった。それはこうである。言葉やその使い方を「思考の<衣装>」だと言うことは最高度に非哲学的である、と。では、代わりにどう言うのだろうか。彼は「思考の<肉体化>」と呼ぶ。一言でこれほど深遠な真理が伝えられたことはない。疑いなく、ワーズワース氏は自身の詩、つまり著しく瞑想的な詩のことを考えていた。そして真理はこの考えに明らかである。もし言葉が単なる衣装なら、それを二つに分けることができる。思考を左に、言葉を右に置くことができる。だが、一般的に言って、詩的思考は魂と肉体と同じようにそうした扱いができるものではない。その結びつきは精妙で、内的からみあいは言いようのないほど複雑である。両者は単に<並びあって>いるものではなく、一方が他方の<なかに>、他方を<通じて>あらわれるのである。例えば、一つのイメージ、一つの語はしばしば一つの構成要素としてある考えのうちに入る。端的に言って、二つの要素は身体と衣装のようなものではなく、神秘的な肉体化として結びついている。そして、思考が主観的である度合いに応じて、本質は表現と同一のものとなり、スタイルが内容と合わさるのである。

 

 ギリシャ人は、本の欠如、哲学的姿勢、客観的調査の無数の助けによって極度に自律的な精神をもち、論理学、倫理学形而上学、心理学といった主観的研究を切り開いた。まったく同じ状況にあった中世の学者たちもまさに同じ知識の分野を開拓した。実はギリシャ人の研究には幾何学が加わる。アカデミーの門に掲げられた言葉(「幾何学を学ばざる者入るべからず」)は、この科学がペリクレスの時にはある進歩を見せていたに違いないこと、そして彼の死後三十年の間には学習所に入るための一般的資格とされていたことが伺われる。だが、幾何学というのが部分的には客観的であり、部分的には主観的であるような研究である。この例外を除けば、ギリシャ人と学僧とはまったく同じ道を歩んでいる。