ブラッドリー『論理学』65

 §19.かくして、矛盾は「主観的な」過程であり、名もなく食い違った性質に依拠している。それは「客観的な」実在を主張することはできない。その基礎が限定されていないので、救いがたい曖昧さのなかにある。「AはBではない」というとき、なにを否定しているかはわかっているが、なにを肯定しているかについては言えない。Aとは、あるいはBとは両立不可能な事物の性質かもしれない。あるいは、Bを不可能にするようなAそのものの一般的な性格かもしれないし、Cという個別の述語かもしれない。「丸い四角には三角ある」、「幸福は無限の量のなかにある」はすぐに否定される。我々は丸い四角や無限の数が事物の性質に合わないことを知っている。「美徳は四辺形である」あるいは、「利己主義である」というのも、美徳は空間にある存在ではないし、利己心に対立する性質もあるから否定する。

 

 「ユートピアの王は火曜日に死んだ」というのも安全に否定できるかもしれない。だが、否定は曖昧なままにとどまるに違いない。根拠となるのは、そうした場所は存在しない、そこには王はいない、王はまだ生きている、王は死んだが月曜日にだ、のいずれでもあり得る。この疑わしい性格は矛盾から決して取り去ることはできない。それはある観念の拒絶であり、そこに含まれているが隠されている実在の事実のある側面に関する考慮である。

 

 §20.我々は、ある有用な規則を立てることでこの章を終えることができる。私は、ほとんどの人が結果的になにかを否定しなければ肯定もできないことを知っていると思っている。ある複雑な宇宙では、肯定した述語がなんらかの性質の排除であることは確かであり、否定ととることもできるのである。しかし、それほど大きな口は開いていないが、同じように現実的なもう一つの落とし穴については、まったく気がついていない者もいる。わが謹厳な思想家たち、わが思慮深い懐疑家たち、内気な現象の讃仰者たちは、「<唯一>」という片々たる語とどうやって折り合いをつけているのだろうか。彼らはどうやってあらわれの下になにかが存在することを、目に入ったものがなにかを覆い隠していると疑うのだろうか。しかし、否定についての我々の考察は、何ものも実定的な知識の力なしには否定され得ないという秘密を教えてくれる。無邪気な心にこうした暗示的な考えを導き入れていいものかどうか私は知らない。だが私はこれまで語ってきた一つの規則を言うことでこの章を終えねばならない。我々は肯定することなしには否定することはできない。最も重要であるのは、否定がなされるときにはいつでも、その否定が依拠する実定的な場について明確な観念を得ることができるのである。