ケネス・バーク『歴史への姿勢』 77
. 補遺 七つの職務
I
動機づけの理論の可能性と、それに応じた動機を定義し、分類するやり方には終わりがない。わが英雄はなんらかの特殊な宗教、人種、国民性、社会的階級、歴史的伝統、職業、パーソナリティ・タイプ、腺病質、老練な競争者によってもたらされた心理的傷などによって行動しうる。もし彼が置かれた状況のためにそう行為したのだというなら、それは無限のやり方で言いあらわしうる。彼がそれをした状況は、多かれ少なかれ彼の行為に実際的に関わる神、或いは神々の背景のもとでなされたとも解釈されるし、「自然」(多様に解釈された「環境」)という全く世俗的な背景のもとなされたとも言える。或いは些細な状況の積み重ねによって、例えば、共和党員で、引退しており、イエールの卒業生で、眼鏡をかけ、妻と喧嘩したばかりのQ氏がこうした要因の組み合わせのなかで車をまさしくこのように転じたからこそこの交通事故は起きたのだと説明することもできる。こうした動機づけの密林のなかで動機を研究しようとする際に心にとどめておくべき基本的な命題はこうである、即ち、誰でもがいかなる理由によってどんなことでもすることができる。
かくして、動機について更にもう一つの用語をつけ加えようとするこのエッセイは、ジャングルの一枚の葉っぱに焦点を当てて、「<これこそが>葉っぱだ。まさしくこれこそが<それだ>」と勝ち誇って主張しているようなものである。しかし、まず最初に、弁解的な導入部で、どうやって我々がそれに達したかを説明することで我々の単純化された動機づけを説明してみよう。
最近、言語の理論を教える課程で(その課程は「象徴的行動としての言語」と名づけられている)、私はテキストとして教育の哲学に関する本、ネルソン・B・ヘンリー編集、シカゴ大学出版の『哲学と教育』を使っていた。学生も教師も共々に驚いたのは、我々が考察する多様な<哲学>の外見上の多大なる相違にもかかわらず、著者が自分の哲学的立場に含まれていると考える<教育法法>の問題に赴くと、揃ってほとんど同じやり方を推奨していることにあった。つまり、批判的な議論によって指導し教えるというものである(プラトンがソクラテスの対話で用いたやり方を教室でも行なおうというわけである)。すべての哲学は、それぞれ異なった観点からではあるが、この同じ教育方法に引き寄せられていた。(つまり、結果的に、各哲学は異なった<諸原理>のなかの同一の<方法>に「基づいている」)。
この状況は国連が置かれている状況をうまくあらわしている(そこでは、当然のことながら、相当に開きのある動機づけの背景をもつ代表たちが大多数に共通のある種の手順を定めた憲章に同意している)。世界が共通の究極的な信念によって結びつくまで、或いは結びつかない限り、真の平和が世界に訪れることはないと考える者もいるのだから、国連機構は方法にたどり着くまでの道筋は大いに異なっているものの、方法そのものについては各国が十分同意できていると言ってはどうだろうか。様々な道でジャングルを通り抜けるものの、同じ開拓地に集ることができるのである。
ここにリベラルな理想のいい例があろう。数多くの多様な動機づけをもち、特有の性格をもちながら、肖像画を集めた美術館の陳列のように、すべてが一堂に会する十分平和な世界が可能なのである。
しかし、こうした単なる寄せ集めで十分なのだろうか。いかなる相違があろうと、多数に共通のなんらかの顕著な要素があるに違いない。さもないと、手順についての方法の同意すら不可能となろう。それでは共通に必要とされる要素とはなんであろうか。それらをどう描きだせばいいだろうか。