ケネス・バーク『歴史への姿勢』 81

 

 動機の、或はむしろ「義務」の、「職務」に関する七つの包括的な範疇についてはこう言える。つまり、それはすべての領域を蔽うことを意図しているが、相互に排除しあうわけではない。個々の行為は、分割そのものが論理的に背反しあうわけではないのと同じように、分断をまたぐ場合もあり得る。例えば、キケロは雄弁家の最初の職務は聴衆を教育することで、第二は喜ばせること、第三は動かしたり「向きを変えたり」することだと言ったが、第二の職務は明らかに「楽しませること」に入り、第三は「統治すること」に入る。そして、皮肉なことに、彼は雄弁が実際には<第三の>職務(支配すること)を企図している場合には、<第一の>職務を<目立つように>強調するべきだと述べている。しかし、任意に我々が割り当てた順番に従って、一つ一つについて考えてみよう。

 

 この大略で、「統治すること」に入るのは、まず、皇帝、王、専制君主、独裁者、大統領などの支配者である。二次的には、支配人(経営者)、労働者たちの指導者、土地の顔役、仲裁者、議長も含まれるだろう。政府の機関である場合には、議会や裁判所まで含むことになろう。(おそらく、かつてストア派が「理性」と「規範」とを同一視し、我々の方では提示する職務の概要が根拠のあるように思われることを望んでいるので、「統治すること」が一覧の最初に来ることになったのだろう。)

 

 「仕えること」の意味を「物質的に供給すること」に限定する限り、明らかにまず入るのは農業、産業、輸送、及びそれに必要な事務職である(テクノロジーのもとに厖大な項目が含まれ、それが資本主義下におけるテクノロジーともなれば、そのなかに通常、広告や宣伝と呼ばれている甘言をもたらすものも含めることになるので、更に厖大なものとなる――或いは、それらは大衆にものを欲しがるよう「教育している」という意味で「教えること」に分類すべきなのだろうか)。いずれにせよ、我々の社会における「統治すること」と「仕えること」(物質的に供給するという意味での「仕えること」)の関係を考えるときには、政治的な統治だけでなく「ビジネスにおける統治」について語ったときにサーマン・アーノルドがかつて提示した区別を思い起こしておくのがいい。彼が述べているところでは、単なる<機能>として考える限り、金融界の人間でも統治することはできる(一般大衆は企業の重役に投票できるわけではないので、政治的に代表を選ぶという規範からは外れているが、企業が物品とサービスにかかる<対価>という装いのもと、結果的に共同体から<税>を徴収することができる)。この意味において、ビジネスと金融は表向きは<仕えている>場合にも隠れたところで<統治している>(勿論、財力によって、広告のための資金を認めたり控えたりもできる)。労働組合も、事業方針や生産方法に影響を与えることができる限りにおいて、ある程度の統治力を揮える。

 

 「守ること」のうちに入るのは、一義的には軍隊や警察であり、二次的には、防衛の仕事を考えたとおりに実行に移すための「知性」の仕組みである(通常、考えそのものは職業につきものの視野の狭さを帯びている)。国家政策が「安全保障」によって導かれている限り、<守る>という職務は<統治>の原理に行きわたっている(「色調を定める」或いは実際には「取って代わり」さえする)。こうした重複は、警察、政策、政治組織、政治police,policy,polity,politicsという語の語源的な類似性にも感じ取れる。本質的には<仕えること>であるはずの交通規制は、裏づけとなる権威が必要であるために通常警察によって行なわれている(それゆえ、ここでも統治することへの道が通じている)。

 

 「教えること」には、公的な教育という明白な主要機関以外にも、一般的に、情報を伝える制度が含まれる(ジャーナリズムのような)。この点に関する広告の両義性については既に論じた。「純粋理論」における考察はこの項目に最もよくあてはまるように思われる。また社会の少数のメンバーが、その社会が基礎にしている仮定や前提を批判的に検証するという珍しくはあるが必要な契機もこの項目に入る(発見のためには、別の場合であれば当然と見なされている諸原理を組織的に疑問視する思弁的な方法が用いられる)。教えることは、振るまい方を導く価値や姿勢を繰り返し教え込む限り、統治することを含んでいる。プラトンが哲学者王を持ちだすことで調和を仕上げたことを思い起こそう。

 

 原始的な社会では、「楽しませること」という職務は一つの意味に限定されており、部族中の吟唱詩人の役割に限られている(後には、宮廷道化となる)。しかしまた別の意味で言うと、楽しませることは、「類似療法的魔術」の理論で示されているように、功利性によって合理化されてはいるが、集団的儀式(儀礼的な踊りのような)のすべてに含まれている。我々の社会では、楽しませること(プロスポーツも含む)は主要な産業となり、演者の能動性と観客の受動性の差は最大限に広がり、観客は、安っぽい、或いは無料の演し物を選んで始めて、おとぎ話に出てくるような、すべてに飽きてしまった東洋の専制君主の「私を楽しませろ、さもないと首をはねるぞ」という姿勢を示すことができるのである。

 

 ニュースは、情報を伝えるという役割においては、「教える」ことのなかに入ろう。しかし、「ドラマ」としては、虚構以外では楽しめないような苦難を実際に被る人々の物語として、楽しむことの一つとなる。ニュースは、想像上ではなく現実の犠牲者を供するという点で、ある種のローマ競技場を我々に与えている。この姿勢は、他人の不幸を毎日のように忠実に詳述することで読者を楽しませ続けるために、全世界に人員を配置し、ドキュメンタリー・フィルムや写真を集め、配信しているような場合に明らかである。(或いは、アリストテレスの悲劇に関する説に則って、そうしたことは「驚くべきこと」という魅力を持っていると言ってすませるべきだろうか。)ニュースは、その選択、時期、強調(記事の位置と見出し)によって、人々の「現実」に関する見方を形成し、ある状況における正確な根拠のある方針はなんであるかという判断に影響を与える限り、<政府>の付属物である。それゆえ、ニュースが誤って伝える限り、誤った支配に従属している。

 

 楽しませることは、教えることとともに、実際の行為に対応するような姿勢を形づくり、増強することで、間接的な支配となりうる。我々がシェリーの『詩の擁護』の最後の一節に賛成できるのはそうした意味合いにおいてである。「詩人は、自分では認めていないが、世界の立法者である。」人々はしばしば美的な自己と実際的な自己とを乖離させ、虚構にある市民としての自己とは全くかけ離れた類の行動や性格を称讃するという事実によって、調和は幾分損なわれる。他方において、ワシントンでの野球の開幕の始球式は大統領が務めるという伝統が示しているように、政治でさえも熱心にエンターテイメントと同一化しようとしている。政治的な論争は、政府の政策をめぐる市民同士の合理的な選択をめぐるものというより、エンターテイメントとして判断した方がより適切な場合もある。そして、広告媒体の性質は、ビジネスとエンターテイメントとを強力に結びつける。しかしながら、楽しませることについての観念は異なった社会的風潮によって変化する。おそらく、初期のニュー・イングランドでは、魔女裁判公開処刑を見たり伝え聞いたりすることが一般市民にとって病的なまでに強い楽しみを与えていただろう。

 

 肉体的医学や衛生学は、「治療すること」に入る主要なものであり、精神医療や予防医学もますます重要性を増している。「治療する」ことにはまた、弱者に対する<配慮>も含まれる(病人、幼児、老人)。治療とエンターテイメントが重複する部分は、アリストテレス詩学の昔から、共感をもって悲劇を見ることから生じる感情的な癒し(浄化、「カタルシス」)として考えられてきた。また、「治療すること」が、最後の職務、「聖職者としての儀式の執行」と重複する部分が多いことは、医者の洗練された「病人との接し方」や、心理学者の辛抱強くなんでも見通しているかのような雰囲気が、より高い権威をもっているかのようであり、そこから治療的効果が引きだされる、或いは引きだされると考えられていることに見て取れる。(こうした振る舞いは、聖職者の劇的な方法と衝突する。)「治療すること」が「統治すること」と衝突しうる証拠としては、アメリカ医学協会を支配する役人が、自分の立場を用い、事業方針の名のもと、社会政策の妨害をどうやって成功させたか考えてみるがいい。

 

 最初の六つの職務は自ずから決まっていったようなところもあったが、「最後」の働きとしてある「聖職者の儀式の執行」を決めるのには難儀した。しかし、少なくとも、他の順番こそ任意なものであっても、我々がこの職務を最後にとって置いた理由は見て取れることだろう。最初我々はそれを、「慰めること」の職務と呼ぼうと考えていた。誰も「治療」できないようなことが存在する――避けられない別れ、苦しみ、死などの悲しみに対して、できるだけのことをするのは慰めるという職務である。医者がその任務を終わり、「神に仕える人間」が(葬儀人を補佐として)それに取って代わるような「質的断裂」の地点、「危機的地点」の経過が存在する。それゆえ、「治療」と「慰め」は異なるのである。

 

 しかし、宗教的信条や聖職者の働きを導く神学的教義の高度に言語的な性質を考えるとき、我々はこの最後の職務を本質的に<名辞論的な>ものだと考えざるを得ないように感じた。「彼岸」を信じようが信じまいが、この職務は人間を「彼岸」との<関わり>で扱う。そして、こうした扱いは、「永遠なるもの」に<関連して>「時間的なもの」を見ることによって(或いは「超自然的なもの」に<関連して>「自然的なもの」を)、二つの名辞論的に異なる領域に「橋を架ける」という点で、「聖職者の儀式の執行」である。

 

 「慰めること」は、現在一般的に宗教的な信仰と結びつけて考えられている「心の平安」を強調している点で、一時は有利な立場にあった(その場合、理解できる人道主義の弱さであるが、愛にあふれた神によって永遠の地獄の苦しみを運命づけられた多くの哀れな悪魔たちのことなど鮮明に想像することができないのである)。しかし、「聖職者の儀式の執行」には、<式を挙げたり>、<正式な承認を行なう>(結婚式や君主の戴冠式でのように)ことに最も顕著な聖職者につきものの主要な務めに、より直接的に結びついているという利点がある。ここでは、明らかに、聖職者の役割は、祭典を<解釈し>、<認可する>ことによって、<威厳に満ちた>ものにすることにある。そして、この威厳は、本質的に、究極的な永遠の、超自然的な根拠(「彼岸」)によって時間的な自然の出来事を解釈することが含まれている。このように見ると、「架橋する」というのがこの職務を最もよくあらわす言葉だと思える。

 

 ローマ皇帝が、異教的な神性と世俗的秩序の長であるという二重の役割のために、<最高神官>という称号を与えられていたことを思い起こすとき、聖職者の職務が神権政治に赴く可能性のあることは見て取れる。また、聖職者の教えが、信者に自分自身を管理するよう促す限り、聖職者の職務にある約束と警告は世俗的な統治機構と絡み合って働くこともあり得る。我々が使う「セラピー」という言葉は、古いギリシャ語から来たもので、職務の重複に対する感受性を示しており、神の崇拝、養育や世話、医学的な処方や介護のための奉仕者や付き添いに従事する者(奴隷ではなく、自由な職業として)を示すのに使われていた。『ギリシャ宗教研究序説』でジェーン・ハリソンが「務め」の意味の広がりを、「導き、よい影響を与える」、「世話、奉仕、介護、崇拝がすべて一緒になった」と示したときに、この言葉の聖職者的意味合いを明らかにしている。この言葉はまた、(劣ってはいるが)軍事的務め、求愛すること(媚びへつらい)、一般的になにかを<提供すること>にも使われる(我々の第二の職務の活動範囲に含まれるような用法である)。

 

 聖職者の仕事が教えを広めることにあるなら、そうした教えには名辞論的な次元がつけ加わり、それは聖職者にとっては非常に重要であっても、世俗的な教育の現場では軽視されたり無視されたりするかもしれないにしても、教えることの範疇と重なることになる。二次的には、形而上学者も「架橋」し、人間は単に経験的であるばかりでなく、その理性の本質に「究極的なもの」が含まれていると仮定しようとするのだが、通常は幾分ためらいがちか恥じらいがちである。更に遠くまで行けば、聖職者によるものであろうと世俗的な人物によるものだろうと、調停の役割一般には儀式執行の痕跡がある。宗教的調停と現世的調停の間にある技術的な類縁性は、世俗的法と超自然的な「承認」との伝統的に密接な関係に示されている。

 

 これで、我々が互いに働きかけ合う職務の一般的な概観としては十分である。もしこれら七つの言葉が十分よく選ばれたものなら、あらゆる人間の「職務」は、不合理なひずみもなく、これらの名称のもとに分類されよう。それは、人間の動機づけの問題に対する新ストア派的な「職務からの」取り組みということになろう。

 

 しかし、ここまでくると、関連して考慮すべき問題がいくつかある――それに向うことにしよう。※2

 

 

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*1:

※2アリストテレスの『政治学』は、主として政治体制の一覧をめぐって構成されている(王制、貴族制、「政治組織」、そして、それらを濫用した僭主制、寡頭制、民主制があり、彼自身は民主制と寡頭制を折衷した「政治組織」を選んでいるが、どちらかといえば民主制寄りである)。しかし、二ヵ所で、彼は国家に「必要な要素」と考えられる一覧をあげている。その始めの方のリストは(IV,iii,9-15;1290b21-1291b14)八つの「要素」を含む。(1)農民、(2)職人、(3)商人、(4)肉体労働者、(5)戦士、(6)議員と法廷裁判官、(7)富者、(8)公僕、である。

 最初の四つと七番目のものは、大体、我々のカテゴリーでは二番目の「仕えること(物質的に供給する)」に収まるだろう。六番目のものと八番目のもの(その行政的役割は、いまの我々が「公務員」や「政府官僚」と呼んでいるものの始めであろう)は「統治すること」に入るだろう。アリストテレスはまた、これら多様な職務が同一の人物によってもなされうることを示している。実際、私には真面目ぶった学者の冗談のように見えるが、彼は、あらゆる人間は、富者であると同時に貧者であることはできないが(つまり、彼は富を階級を区別する主要なしるしとして強調している)、殆どの職務はこなせると考えがちだと言っている。

 我々があげた残りの四つのカテゴリー(「教えること」、「楽しませること」、「治療すること」、「聖職者の儀式の執行」)は除外されている。しかしながら、後になって、職業、「要素」あるいは<erga>としてあげたより短いリストには(VII,vii4-5;1328b-1328b24)聖職者をつけ加えている。このリストに従えば、国家に不可欠なものとは、(1)食料、(2)手工業品、(3)軍隊、(4)金銭、(5――「五番目であり第一でもある」と彼は言う)宗教的務め、(6――「すべてのなかで最も必要」)市民の権利や利害を扱う機構、である。ここでは、より少ない項目に圧縮して、より広い領域が蔽われている。しかし、「教えること」、「楽しませること」、「治療すること」はいまだ除外されている。

 おそらく、公立の病院や医療の「社会化」や半社会化が現在の制度では進んでいるので、我々にとっては「治療すること」が「市民的な」一つの機関だと思われている。また、勿論、アリストテレスは<都市>に限定して「必要な」職務を考えているが、我々のリストはより広範囲にわたるものである(人々が相互に<社会的に>することが考えられている)。また、我々は長らく強制的な教育になじんでいるので(「プロパガンダ」や「教化」を含む)、「教えること」が基本的な「職務」として自覚されるようになったのかもしれない。しかし、彼が都市の働きから「楽しませること」を除外したのは、彼が音楽と詩によって与えられる「カタルシス」について書き、アテネの舞台が市民的な設備であったことを思うと驚きである。

 しかしながら、この二つのリストでは除外された職業も、『政治学』全体としてみれば、プラトンの『国家』でもそうであるように(アリストテレスが最初のリストに関連して第二巻について論じている箇所は、幾分誤った観念を与える)、順当に考えられている。『国家』では、ソクラテスが人間の身体的な必要を考えることで、最小限の不可欠な社会的働きから始めて徐々に国家を作り上げてみせる。人間と国家との類推に従い、プラトンの考え方は、<魂>を犠牲にして、<身体>を強調しているとアリストテレスは考える。それゆえ、アリストテレスに従えば、物質的な功利性を考えるよりより重要なのは、司法、審議、軍事などの精神的な要素なのである。