ブラッドリー『仮象と実在』 106

      ... [決して、それは絶対と両立不可能なものではない。そこでいかなる多様性も失われるわけではない。]

 

 ついでに、もう一つの点、悪において強く感じられる類を見ない人格性について言及しておこう。より詳しい考察については、「私のもの」と「これ」との問題に取り組むまで待たねばならない(第十九章)。ここでは、もう一つの危険の源について少々述べておく。読者の注意を喚起しておきたい注意事項がある。我々は既に幾度も様々な問題について同じ形の議論を繰り返してきた。すべての相違は、絶対において一緒になると繰り返し主張してきた。どういう具合にかはわからないが、あらゆる相違が融合され、あらゆる関係が消え去る。ここで、ある点では説得力があるように思える反論があり得るだろう。「確かに、あらゆる相違が消え去るのは真実である。まず始めに一つの実在が、次に別の実在が消え、古くからの議論が持ちだされ、古くからの図式が適用される。最終的になんの多様性もなくなり、どの場合でも多様性は絶対のうちに失われる。こうした相違とともに、すべての性格は完全に失われ、絶対だけが空虚な残余として、剥きだしの物自体として存在することになる」と。これは重大な誤解であろう。絶対がどのようにして関係の形式を越えていくか我々が知らないのは確かである。しかし、そのことは、関係の形式が消え去ったとき、その結果がより貧弱なものになることを意味するわけではない。それぞれの問題について、特殊な不調和にどのように調和がもたらされるのか我々が言うことができないのは確かである。だが、それは絶対において多様な内容が実在することを否定することであろうか。個々の細部においてどのような解決がもたらされるのかわからないからといって、すべての細部が消し去られ、絶対が空虚で平坦な単調さであると認めねばならないのだろうか。実際、それは非論理的であろう。個々の事例においてどんな解決が可能か知らないとしても、あらゆる場合に多様な全体が含まれていることは知っているからである。我々はこうした部分的な統一が絶対においてどう一緒になるのかは知らないが、その内容の一つといえども消去されないことは確信している。絶対はあらゆる不調和、それらが含むあらゆる多様性よりも豊かなものである。対象の貧弱さは我々の無知によるものに過ぎない。我々の知識は抽象的であるために、貧弱たらざるを得ない。我々は絶対の豊かさを具体的に特定することはできないが、現象のあらゆる領域において実在にはそれ以上の宝物があると言える。次々にだされる反論や問題は単に積みかさねられるだけでなく、実在の実質的な性格を増すものとして加えられる。かくして、人は自分の所有物が完成する際の正確な形については無知かもしれないが、眼に見える性質は孤立しているとしても、より高次の形式においてそれに応じた富が得られることは合理的に主張できるのである。