ケネス・バーク『動機の修辞学』 40

.. パスカルの「意図の方向づけ」

 

 パスカルのレトリックの原理は腐敗した神学的修辞を分析した、それ自体活発な修辞に満ちた『プロヴァンシャル』の第七書簡に簡潔に述べられている。ベンサムについて述べた際に我々はそれを用いた。しかし、ベンサムからマルクスとド・グールモンまでたどり着いたいまの時点で考えると、また得るものがある。

 

 パスカルイエズス会の決疑法を攻撃している。普遍的原理を個別の事例に適用することは、いかなる法であれ判断の際に必要な行為であるから、決疑法そのものが悪いわけではない。イエズス会のレトリックは、決疑法の歪曲だからパスカルに攻撃されたのである。論争が神学に関するものであるので、パスカルの分析は歴史的な興味を引くだけだと思う者もいるだろうが、彼が分析している言語過程は言語について回るものであり、「精神的な」用語でも「物質的な」用語でも、あるいは「抽象」(神学的にいえば「神性」)でも、抽象が神の化身のように具体化する「事実」や「物質的状況」についての言葉であっても変わらない。

 

 言語の根にある(それゆえレトリックの根にもある)この「パウロ的」要素は、神学論争で最も直接的にあらわれる。そして、パスカルの第七書簡のように、巧妙に捉えられ、論争的に明瞭に呈示されると、まったく異なった言語状況であっても適用することができるのである。世俗的な表現にもそうした神学の痕跡を辿ることができる。神学において修辞の力がどれほどのものであろうと、気づかれていない更なる力が神学にはある。マルクスの「イデオロギー」攻撃は、もちろん、ベンサムの「称讃的覆い」についての観察がそうであるように、まさしくこうした痕跡に向けられている。しかし、彼らの関心はあまりに世俗的なので、神学的言語の原理を直接的に明らかにすることはできなかった。そこで、我々はパスカルの敬虔さとド・グールモンの不敬虔さに赴くこととなる(それぞれが自分なりの方法で「純粋な」観念に関わっている)。

 

 決疑法は抽象的原理の個別な条件への適用であり、その関係は、本質的に心と身体、精神と物質、神とその自然における姿の関係に似ている。あるいは、抽象的原理は目的あるいは終点と考えることができ、物質的条件はそれを具体化するための手段と考えることができる。しかし、手段は、それぞれが自分なりの性質をもつ<個別の>目的の観点から見ると、必然的に「不純な」ものである。それは多くの目的に使用されうる。しかし、本来備わっている性質がそうしたどれか一つの目的のためにつくられているのでない以上、手段として「不純」である。こうした「不純さ」は、必然的に「悪い」というわけではない。本来備わっている性質が目的に関係のない要素を含んでいることからくる、技法上のみの不純さもあり得る。

 

 しかし、他より比較的純粋な手段がある。その性質が、他に較べて、与えられた目的に対する手段としてより役立つことがある。かくして、一発殴りつける方が、ショットガンの一撃よりも平和の性質に近いと言える。(一般的にであって、すべての場合に当てはまるわけではないが。)言葉による攻撃のほうが殴るより平和に近いだろう。議論のほうが言葉による攻撃よりも更に近い。嘆願のほうが議論よりも近く、賛辞のほうが嘆願より近い、等々。このような場合、良心的な人間は決して、自分が絶対に善だと考える目的を捨て去ることはなかろう。そして、与えられた条件のなかで手に入れることのできる最も純粋な手段を選ぼうとするだろう。アリストテレスの論じた理想的な修辞で言えば、あらゆる手段を考慮し、個々の状況が許す最上のものを選択するということになる。

 

 ここでは、道徳的問題が<手段>の選択に含まれていることに気づかれよう。しかし、こうした決疑法はすぐに二つの戯画化を許す。第一に、我々はより劣った手段を選択し、それが手に入れられる最上の手段なのだと自らに言い聞かし、良心を鎮める場合がある。こうしたやり方では、「目的は手段を正当化する」という説が笑いものとなる(方法論的な関心によって諸手段の<位階>を正し、与えられた状況で最上の手段を選ぶよう厳しい努力をしない場合には常にそうなる)。というのも、<いかなる>手段でも正当化することは可能であり、公言された目的とはまったく異質な手段、実際手に入れられる他の手段と較べて遙かに劣った手段を「称讃的覆い」によって隠すことはできるが、それは結局目的をぶしつけに歪曲することとなるからである。

 

 しかし、こうした方便は、我々はなんでも好きなことをできる、ということにつながる(ラブレー風の<汝の欲するところをなせ>という原理の進んだものだが、ラブレーが同時にもっていたそうした自由を制限する良識は欠いている)。そのように我々が自分の欲することをできるとなると、社会的に評価されているような意図を選び出し、それを行為の目的として<割り当てる>ことができる。そして、その行為が、公言された意図を実行する手段と考えられるよう求められるのである。

 

 パスカルの第七書簡は、この修辞的方便を用いるイエズス会への見事な攻撃である。実際、イエズス会は厄介な状況に直面している。大多数の信者の信仰心の質が、警告を要するほど劣化していた。当時最も信仰深い者たちは、プロテスタントの敬虔主義に転ずるか、あるいは、パスカルのように、教会に留まりはするものの、プロテスタントへの憧れがほの見える質素な生活を好んだ。対照的に、宗教熱が盛んなときにさえ宗教に熱心ではない多数ののんきな人々がいたが、イエズス会は彼らを教会のために確保、開拓したいと願っていた。彼らは聖パウロが普及した厳しいキリスト教からは遠く逸脱していた。事実、キリスト教の教えに違反するばかりでなく(例えば、平気で決闘を行なった)、キリスト教の教えに留まっているふりさえしないのだった。プロテスタント宗教改革以来の失地を教会のために取り戻すべく形成された布教集団であるイエズス会は、純粋に組織的な問題を解決しなければならなかった。こうした背教者たちを名目上だけでも教会に留めておくにはどうすればいいか、である。こうした人間は非キリスト教的な生を送り、その生活様式を変えるつもりはないのだが、神学はこの難局にどう対応すればいいのだろうか。

 

 『若き芸術家の肖像』で、ジョイスの主人公は、どのようにしてイエズス会は「脱俗的な者ばかりでなく、世俗的人間からも俗物という評判を取りながら、その歴史を通じて、だらしがなく、不熱心で、打算的な者たちの魂が神の正義という囲いのなかあると弁護したか」について考えている。パスカルは熱烈な信仰者だった。彼の書簡は、イエズス会が当時の彼らの問題を解決するために提示した偽善的、ご都合主義的レトリックに対抗して戦うための風刺的なレトリックだった。イエズス会のスローガンは「意図を指導せよ」ということであり——パスカルは<意図の指導に関する主要原則>を諷刺する。人々は生活様式を変えないし、変えようとこちらがどんなに努力してみても教会は彼らを完全に失うだけであるから、彼らが非キリスト教的なことをなすに任せよう。しかし、そうした非キリスト教的行為にキリスト教的動機を与えることで、意図をどう変えるか教えようというわけである。

 

 パスカルは、非常に勉強熱心な幾分愚かで欺されやすい人物を演じることで、最も効果的に諷刺を行なっている。彼はイエズス会の先生にこつこつと真面目に質問する。その論理の深淵をなんとか理解しようと懸命に努力する。彼は辛抱強く、希望に満ちている——突然、彼は喜びの声を上げる、ついにその教えを理解したと思って。もちろん、それはいつも束の間のことで、すぐ馬鹿げた結論に追い込まれる。

 

 パスカルイエズス会教師の言葉を推測して次のように言う。「我々は行為をやめることができないにしても、少なくとも意図を純化することができる。かくして、目的の純化を通じて手段の悪徳を正すのである。」(Quand nous ne pouvons empecher l'action,nous purifions au moins l'intention;et ainsi nous corrigeons le vice du moyen par la purete de la fin.)あるいは、教会を世俗的に救い出す方法を発明したと、無遠慮なまでの喜びと熱心さを込めてパスカルは言う。決闘が禁じられているのに、人が決闘に行くというなら、「意図を方向づけ」し、代わりに、決闘が行なわれる場所に散歩に行くという具合にすればいい。そして、決闘が始まれば、生命を脅かす敵に対して自分の身を守る必要に向けて意図を方向づければいいのである。

 

 この書簡は楽しくも破壊的である。しかし、これはイエズス会の利益にもなっていると言えよう。パスカルの最も有効な一撃は、イエズス会の説を風刺的に不条理に追い込むことではなく、イエズス会の教説のなかから<例証>を引くことにあるからである。意図の方向づけの原理を実行するために、彼らはあらゆる種類の事例を熱心に考えている。それゆえ、イエズス会の理論家は、最も極端な当惑を感じるような事例まで考えあげ、この便利な原則を最大限、徹底的に検証し例証を重ねた。その専門的な考察が、パスカルにとって最も効果的な例を与えることになる。この点において、宗教を堕落させた者として、彼らは現代の多くの教会の代弁者と都合よく比較されるが、現代の代弁者は物質主義的野心を観念的にぼやかすことで満足し、世俗的な利害を精神的に翻訳することで再びイエズス会の詐術を行なってはいるのだが、イエズス会が見せたような理論的な厳正さはないのである。

 

 国際的な外交の領域では、一国の政治家は平和に向けて「意図を方向づけて」いる間にも、他国に対して強力な経済的軍事的同盟を望み、打ち立てようとしている。