トマス・ド・クインシー『自叙伝』14
ああ、アハシュエロスよ、永遠のユダヤ人(1)。寓話であるのか、そうでないのか、汝こそは終わりのない悲痛に満ちた巡礼に最初に出発したとき、エルサレムの門を飛び立ち、無益にも追いかけてくる呪いから逃げ去ろうとした汝でさえ、姉の部屋から永遠に離れてしまった私ほどには終わりのない悲しみの運命がキリストの言葉に読めることはなかったろう。苦痛の虫が私の胸に住み、その虫は死ぬことがなかった。人間は疑いなく、新しく生まれた幼児から老齢の人間まで、我々には知覚することのできない名状しがたい結びつき、絆のつながりによって一つになっている。しかし、異なった段階があり、本性に備わった多くの感情や情動があることを思えば、人は一つのものではなく、終わりと始まりを新たにする途切れ途切れの生き物なのである。この点からすれば、人間の統一とは、情念が属する特殊な段階と広がりを同じくしている。性的愛情のような情念は、その起源の半ばにおいて天上的であり、他の半面において動物的で野卑なものである。それらは、自らにふさわしい段階より生き延びることはなかろう。しかし、二人の子供の間の愛のような全てにおいて神聖なものは、落日に近い年齢の沈黙や暗闇においてもしばしばあらわれる特別なものである。恐らく、姉の寝室での最後の経験や彼女の無垢に関する思い出は、死の暗雲が垂れ込めているときであっても私を照らしてくれるだろう。