2022-05-01から1ヶ月間の記事一覧

トマス・ド・クインシー『スタイル』41

こうした追求は近いところでは、はかなさはあったが、デモステネスによってなされたが、偏見のない性質のものである。そして、彼はそれをその死において、生涯において、ミルトンの言葉を用いれば「不快な真理」を幾度となく発言することで示し、その高貴な…

ブラッドリー『論理学』66

第四章 選言的判断 §1.選言的判断は、ほとんどの論理学者によって、扱いにくい問題だともっともな不平をもたれている。しばしば仮言的判断の適用だととられ、その付属物の扱いを受けている。数多くの尊敬に値する考察が「もし」と「~かあるいは」の意味を…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈29

秋水一斗漏れ盡す夜ぞ 芭蕉 秋水という語の用例によれば、秋のときに出る水をいう。『荘子』秋水篇の秋水のようなものである。秋水揚波、秋水帆漲、みな同じことである。また秋は水の清むものなので、透徹した水も秋水という。劉禹錫の詩の句に、「秋水清く…

トマス・ド・クインシー『スタイル』40

紀元前四四四年から三三三年までの奔流のようなアテネ文学の流れは真っ逆さまに、劇詩あるいは演壇における雄弁の方向に向かったのだろうか。アテネ市民にとって、民衆の賞賛や共感を得ようとするならどちらかの道しかなかった。芸術家や軍隊の指揮官になる…

ブラッドリー『論理学』65

§19.かくして、矛盾は「主観的な」過程であり、名もなく食い違った性質に依拠している。それは「客観的な」実在を主張することはできない。その基礎が限定されていないので、救いがたい曖昧さのなかにある。「AはBではない」というとき、なにを否定して…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈28

あはれさの謎にも解し(とけし)時鳥 野水 解しは解けしか解きしかはっきりしないし、句意もいささか朦朧としている。強いて解すれば、この句こそ場外夷にある者のことをいうもので、時鳥を聞くものには別離の悲しみがあると『西陽雑俎』、『華陽風俗記』な…

トマス・ド・クインシー『スタイル』39

貧しいギリシャ人は夜なにか思いついたときに最良の覚え書き帳として白い漆喰塗りの壁を好都合なものとして使用した。真鍮あるいは大理石だけが考えを永続的に保存できるものだった。アテネの劇場で役者の台詞はなにに書かれたのか、テキストの入念な校訂は…

ブラッドリー『論理学』64

§17.否定や矛盾は、矛盾の肯定と同じではない。しかし、最終的にはそこに落ちついてしまう。矛盾するものは、いかに否定が主張しても、決して明らかにはならない。「AはBではない」で、食い違いは特定されないままである。矛盾の基礎となっているのは、…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈27

烏賊は夷の國の占形 重五 秦王が東方へ旅行したとき、数を数える竹を入れる袋を海に落とし、それが化して魚となる、ゆえに烏賊はその形がその袋のようだということを『西陽雑俎』から引きだして、古解は事々しく解釈したが、ここでは関係がない。曲齋は、白…

トマス・ド・クインシー『スタイル』38

それはなにか。<劇場>と<アゴラ>あるいは<公共広場>である。舞台での公表と演壇での公表である。それらはアテネに起こった並はずれた公表様式だった。一方は、まさしくペリクレスの世代にミネルヴァのように突然に生まれた。他方は、ペリクレスより百…

ブラッドリー『論理学』63

§15.要約すると、論理的否定は常に矛盾するが、矛盾の存在を肯定しているわけでは決してない。「AはBではない」は、「AはBである」の否定、あるいは、「AはBである」は間違いであることを肯定しているかどちらかである。この帰結以上に進むことはで…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈26

しら/\と砕けし人の骨か何 杜國 しら/\は白々である。骨か何かがあると疑って、前句の冬枯れ分けてひとり唐苣の立ったあたりに、何かわからぬが白いものが砕け散っているのを遠くから眺めただけで、別に深い意味があるわけではない。砕けた貝殻、細かな…

トマス・ド・クインシー『スタイル』37

ある種の公表はアテネに存在していたに違いない、それは明らかである。文学が存在するという単なる<事実>がそのことを証明している。というのも、公的な共感がなければどうして文学が生じよう。あるいは、定期的な公表がなければどうして公的な共感があり…

ブラッドリー『論理学』62

§13.論理的否定は、論理的肯定ほど直接に事実に関係することはできない。そうした厳密な性格をもつゆえに、それを「主観的」と言うことができる。それは私の思考の外では効力がない。実在は呈示される変更などは受けつけない。この呈示は事実の運動ではな…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈25

冬枯わけてひとり唐苣 野水 冬枯れは冬になって野のもの田のものが枯れたことをいう。唐苣は、生で食べることも煮て食べることもあるが、葉をとるとすぐにまた生えてきて、四季いつでも新鮮なものを得られるので、不断草という俗称がある。一句の意味は冬枯…

トマス・ド・クインシー『スタイル』36

さて、我々の時代において珍しくもあり、哲学的にいってもまことに奇妙なのは、作家、読者、出版社といった文学に関心をもつ者たちの盲目さで、個々の作品にかかずらうことで出版に些末な細分化を加えている。本の増加そのものが対象を次第に壊していってい…

ブラッドリー『論理学』61

§11.この種の判断において、否定の基礎となっているのは、主語の概念内容でも、概念内容に<加えるに>単純な不在でもない。本当の主語は概念の内容と<それに加えて私の>心の心理学的状態である。表向きは性質づけられていない普遍的抽象は、諸性質に対…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈24

笠脱いで無理にも濡るゝ北時雨 荷兮 前句で清水を訪ねた人の風狂の様子をあらわしている。宗祇の句に「世にふるもさらに時雨のやどり哉」というのがある。「無理にも」は「濡れでも」でも済む。騒がしい客に雅に対応することから、遺跡に古句のい香りを味わ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』35

結果的に言って、我々の原則に従えば、双方ともスタイルの開拓に好都合な状況に自らがあることを見いだしたに違いない。そして確かに彼らは開拓したのである。どちらの場合にも<芸術>として、実践として適切に追求された。学僧による荒削りで禁欲的な哲学…

ブラッドリー『論理学』60

§9.いまあり我々が見ているような主語は主語そのものではないという答えが返ってくるだろうことは確かである。ある場合には、主語は自らの性質を通じて呈示されたものを拒むし、別の場合には<我々の>間違いによって拒むこともある。しかし、私は、この反…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈23

しばし宗祇の名をつけし水 杜國 美濃国郡上郡山田庄宮瀬川のほとりに泉があり、東野州常縁、宗祇法師に古今集の伝授を受け終わってここまで来て、和歌を詠じて別れたというところから、宗祇の清水の名がある。また白雲水ともいい、それは宗祇が白雲齋と号し…

トマス・ド・クインシー『スタイル』34

公的生活のよく知られた事例において、精神の主観的働きと客観的働きの相違を探るために逸脱をした。一方から他方へ突然に移ることは弁護士が議員のように振る舞う誤りである。一度でも事実や自らでたのではない証拠の覚え書きや適用に、歩行練習機を使う子…

ブラッドリー『論理学』59

§7.あらゆる否定にはそれが根づく土壌があり、その土壌は肯定である。主語の性質xが呈示された観念と両立できないことにある。AがBではない、なぜならAはこうしたものであり、もしBであるなら、Aではなくなってしまうからである。Bを受け入れればそ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈22

ぬす人のかたみの松は吹折て 芭蕉 賊去って弓を張る、とは禅での決まり文句である。曲齋は、恨みのある賊を尋ねていったが、賊は既に去り、その住いのあたりの松でさえ風によって吹き折れており、いまは恨みのもっていきようがないので、せめてそばの松へと…

トマス・ド・クインシー『スタイル』33

第一に、ペリクレスのギリシャに働いた影響をより生き生きと例示するために同じような原因が働き、似たような状況にある別の事例を持ち出した。1.知性が革命的な刺激のもとにあること。2.本が欠乏していること。3.女性的な愛がないために生じる冷え冷…

ブラッドリー『論理学』58

§5.このことからそれに対応した間違いに移ることができる。肯定判断が否定において前提とされているというのが間違いなら、述語だけが影響を受けるのだから、否定そのものは一種の肯定であるとするのも同じように間違いであろう。後でこの教義にある真理を…