2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈11

消えぬ卒塔婆にすご/\と泣く 荷兮 消えぬ卒塔婆を、卒塔婆の文字がいまだに消えないと解釈するのは、何丸があげた一書の解で、現実として読んでいる。鶯笠が解して、失った子供の面影が眼に残って、死んだのも本当とは思われず、もしかしたら夢ではないか…

トマス・ド・クインシー『スタイル』22

しかしながら、そのままではなく余裕をもって受け取れば、パテルクスが最初に気づいた現象、人間の才能の輩出のされ方は彼が目撃した人間の歴史において十分に確立されていると我々は認めなければならない。というのも、政治的変化にキケロの死が重なり雄弁…

ブラッドリー『論理学』47

§64.ごく一般的で、破滅的とも言える迷信は、分析は対象になんの変化ももたらさず、識別がなされるときには、分割可能な存在が扱われているのだと仮定することにある。ある事実の全体があるとき、そのある部分が残りとは関わりなく存在できると結論するの…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈10

偽のつらしと乳を絞りすて 重五 一句の意味は、乳児がいる女がどんな理由によるのかその子はいまは自分の手もとにはなく、朝夕に張る乳房をどうすることもできず、無駄に乳を絞り捨てて、これも人の情けが自分には届かないためだとつれなさを悲しみ歎く様子…

トマス・ド・クインシー『スタイル』21

かくも尊敬している我々であるが、彼の立場を見てみよう。さて、彼が我々の主題に関わっている言明(多くの独創的な言明があるなかで)に立ち戻ると、それは<彼の>経験からはまったく正しい言明であるが、我々の経験からは遠いと言わざるを得ない。彼が言…

ブラッドリー『論理学』46

§62.我々に与えられる事実は感覚にあらわれる複雑な性質と関係の全体である。しかし、我々がこの所与の事実について主張し、主張できるのは、観念内容でしかない。我々が用いる観念が目の前にある個物のすべてを汲みつくすことができないのは明らかである…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈9

髪はやす間を忍ふ身の程 芭蕉 何丸の解釈で、『伊勢物語』の「むかし心つきて色好みなる男、長岡といふところに家つくりて居りけり、そこの隣なりける宮原にことも無き女どもの、田舎なりければ、田刈らんとて、此男のあるを見て、いみじのすき者のしわざや…

トマス・ド・クインシー『スタイル』20

さて、スタイルについての訓練の機械的な体系が、これら間違った書道と同じような平準化する結果しかもたらさないなら、以前からの無知のままでいた方がずっといいことになろう。どうしようもない単調さに終わってしまうなら、昔の無頓着な簡潔さの方が歓迎…

ブラッドリー『論理学』45

§60.総合判断については時間を費やす必要はない。現実の知覚によって与えられるものを超越する際には、疑いなく推論を使っている。形容の総合は、内容のある点での同一性によって現前と結びついている。この総合は単なる普遍であり、それゆえ仮言的である…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈8

我庵は鶯に宿かすあたりにて 野水 一句の意味は明らかで、解釈には及ばず、その人の風流で奥ゆかしい人であることを感じるべきである。古詩に「老僧半間雲半間」というものがある。それは山住まいの人が雲と家をともにするということで、この句は鶯に家を貸…

トマス・ド・クインシー『スタイル』19

第三部 読者は疑い始めたに違いない。「どれだけ人を待たせておくのか」と。二十世紀の間のことを書くつもりであるのに、まだ六十年しか済んでいない。「<どちらに>我々は向かっているのだろうか。どの対象に向かっているのか」どちらがどの程度緊急な問題…

ブラッドリー『論理学』44

§58.このことから、我々はある推測を引き出せる。もし単称判断がより事実に近く、それを去ることで、実際に実在から遠ざかっているにしても、少なくとも、科学ではそうしたことは感じられない。我々を力づけてくれるもう一つの推測がある。通常の生活にお…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈7

日のちり/\に野に米を刈る 正平 『鶯笠』には、日のちりちりは日のまさに入ろうとするところだという。前例をあげることはできないが、まさにそうであろう。米を刈るは、正しくは稲を刈るというべきだが、俗語をそのまま用いている。田といわないで野とい…

トマス・ド・クインシー『スタイル』18

だが、我々がソクラテス一派の書くものに見いだしてきた、そしてそれはソクラテスの殉死によって一層強められたのだが、会話様式はどう表現されているだろうか。どんな言語形式をとっているだろうか。どんな特徴があろうか。スタイル上の欠点はなんだろうか…

ブラッドリー『論理学』43

§56.かくして、抽象的判断はすべて仮言的であることがわかったが、それとの関連において、仮定とはなにかを示し、あらゆる仮言的判断にある実在についての隠された主張をあらわなものとするよう努めてみよう。既に議論した単称判断は、分析的なものだろう…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈6

朝鮮のほそり芒の匂無き 杜國 ほそり芒は細い芒か。ほそ芒はいまもある。朝鮮すすきというすすきがあるらしいが、詳しくは知らない。わが国に産するもので、朝鮮何々というものには、朝鮮ぎぼうし、朝鮮アサガオ、朝鮮松、朝鮮たばこ、朝鮮芝、朝鮮ざくろ、…

トマス・ド・クインシー『スタイル』17

プラトンとクセノフォンがその神学においても互いに憎み合っていたに違いないとすれば、それは、彼らがあからさまになったなら調和するところなどないということを明らかにする事例である。彼らは可能な限り異なった雰囲気を身にまとっている。あらゆる点に…

ブラッドリー『論理学』42

§54.我々が注意深く実在との接点に留意しているのは、すべての主張で曖昧であるわけではないし、疑わしいとも言えないことだろう。「彼が殺人を犯したのなら、絞首刑になるだろう」というのは、恐らく殺人と絞首刑との<一般的な>関連以外のことを主張し…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈5

頭の露をふるふ赤馬 重五 意味は明らかで解釈はいらない。逞しく太いもの運ぶ馬が、勢いよく頭を振る様子で、「露をふるふ」という言葉が生動して、情景が見えるようにである。運ぶのは芝か米か。『大鏡』によって、前句を都移しと見て、『萬葉集』第十九の…

トマス・ド・クインシー『スタイル』16

<散文>は我々みなによく知られたものである。靴屋や洋服屋等々の「勘定書」は散文で書かれている。我々の悲しみや喜びの多くは散文で伝えられ、(ヴァレンタインデーでもなければ)韻文が使われることなど滅多にない。であるから、オリンピュアの揺りかご…

ブラッドリー『論理学』41

§52.この実在の性質は判断においては明らかにされておらず、仮言判断では隠された潜在的なものである。結果からそこに存在することを知るが、それがなんであるかを言うことはできない。更なる探求を経なければ、要素もその間の関係も非常に異なった別の判…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈4

有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮 この第三の句、古註が様々で定説がない。主水は明石主水という酒屋だというのがそのひとつ。従うべきではない。『大鏡』に「明石主水は京都六條本願寺役人にて酒屋にあらず」とある。主水と呼ばれる人物がいたとしても、寺…

トマス・ド・クインシー『スタイル』15

こうした惨事は、可能性としては全文明を脅かすものであり、このあり得べき危険はギリシャをして、その唯一の敵であるペルシャの安定さえ関心事とさせたのであるが──ギリシャと最北、西東にある未知の敵との間にある最大の抵抗勢力であるから──それはギリシ…

ブラッドリー『論理学』40

§50.私がある男の所に行き、そのふるまいについて質問すると、彼は「私は別のやり方ではなく、このようにするべきなのだ」と答えたとすると、私は彼から事実についていくつかの知識を得たことになる。しかしその事実とは創案された立場でも、仮定された行…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈3

誰そやとばしる笠の山茶花 野水* *1 連句を解釈するには、まずおおよそ一句の解釈をし、次に前句との関わりを考え、前後照らしあって微妙な情趣を醸しだすところを会得すべきである。脇句は発句より生じ、第三句は第二句より、第四第五句から揚句にいたるま…

トマス・ド・クインシー『スタイル』14

それ故、散文を社会の初期状態において文が自然に取る形、あるいは可能な形と想像する者は間違っている。天空から降りてくる真理ではなく、地から湧き上がる真理だけが非韻律的な形式を可能にした。だが、社会の初期状態においては、人間の関心を引き、重要…

ブラッドリー『論理学』39

§48.普遍的判断はすべて仮言的である、という結論は我々を再び以前からの難点に陥らせる(§6)。判断は常に真を意図するもので、真理は事実についての真を意味しなければならなかった。しかし、ここで我々が出会うのは事実に関するものとは思えない判断…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈2

笠は長途の雨にほころび、紙衣は泊〃の嵐にもめたり、わびつくしたるわび人、我さへあはれに覚えける。昔狂歌の才子此国にたどりしことをふと思出て申侍る 狂句 木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉 これは前書きのある句である。前書は端書とも詞書ともいう。詩…

トマス・ド・クインシー『スタイル』13

しかし、こうした相違にもかかわらず、我々はみな、異教徒も、イスラム教徒も、キリスト教徒も政治や個人的な策謀に欠くことのできないものとして演説は行われてきている。目的が法律制定に関することだろうと、法廷でのことだろうと、同郷人に市民としても…

ブラッドリー『論理学』38

§46.ここで反対意見のために立ち止まらねばならない。「定言的と仮言的との区別は」と我々は言われる、「実際には錯覚である。仮言的判断はすべて定言的なものに還元できるし、結局のところ定言の一種に過ぎ<ない>」のだと。もしそれがしっかりと確かめ…