ブラッドリー『論理学』44

§58.このことから、我々はある推測を引き出せる。もし単称判断がより事実に近く、それを去ることで、実際に実在から遠ざかっているにしても、少なくとも、科学ではそうしたことは感じられない。我々を力づけてくれるもう一つの推測がある。通常の生活にお…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈7

日のちり/\に野に米を刈る 正平 『鶯笠』には、日のちりちりは日のまさに入ろうとするところだという。前例をあげることはできないが、まさにそうであろう。米を刈るは、正しくは稲を刈るというべきだが、俗語をそのまま用いている。田といわないで野とい…

トマス・ド・クインシー『スタイル』18

だが、我々がソクラテス一派の書くものに見いだしてきた、そしてそれはソクラテスの殉死によって一層強められたのだが、会話様式はどう表現されているだろうか。どんな言語形式をとっているだろうか。どんな特徴があろうか。スタイル上の欠点はなんだろうか…

ブラッドリー『論理学』43

§56.かくして、抽象的判断はすべて仮言的であることがわかったが、それとの関連において、仮定とはなにかを示し、あらゆる仮言的判断にある実在についての隠された主張をあらわなものとするよう努めてみよう。既に議論した単称判断は、分析的なものだろう…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈6

朝鮮のほそり芒の匂無き 杜國 ほそり芒は細い芒か。ほそ芒はいまもある。朝鮮すすきというすすきがあるらしいが、詳しくは知らない。わが国に産するもので、朝鮮何々というものには、朝鮮ぎぼうし、朝鮮アサガオ、朝鮮松、朝鮮たばこ、朝鮮芝、朝鮮ざくろ、…

トマス・ド・クインシー『スタイル』17

プラトンとクセノフォンがその神学においても互いに憎み合っていたに違いないとすれば、それは、彼らがあからさまになったなら調和するところなどないということを明らかにする事例である。彼らは可能な限り異なった雰囲気を身にまとっている。あらゆる点に…

ブラッドリー『論理学』42

§54.我々が注意深く実在との接点に留意しているのは、すべての主張で曖昧であるわけではないし、疑わしいとも言えないことだろう。「彼が殺人を犯したのなら、絞首刑になるだろう」というのは、恐らく殺人と絞首刑との<一般的な>関連以外のことを主張し…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈5

頭の露をふるふ赤馬 重五 意味は明らかで解釈はいらない。逞しく太いもの運ぶ馬が、勢いよく頭を振る様子で、「露をふるふ」という言葉が生動して、情景が見えるようにである。運ぶのは芝か米か。『大鏡』によって、前句を都移しと見て、『萬葉集』第十九の…

トマス・ド・クインシー『スタイル』16

<散文>は我々みなによく知られたものである。靴屋や洋服屋等々の「勘定書」は散文で書かれている。我々の悲しみや喜びの多くは散文で伝えられ、(ヴァレンタインデーでもなければ)韻文が使われることなど滅多にない。であるから、オリンピュアの揺りかご…

ブラッドリー『論理学』41

§52.この実在の性質は判断においては明らかにされておらず、仮言判断では隠された潜在的なものである。結果からそこに存在することを知るが、それがなんであるかを言うことはできない。更なる探求を経なければ、要素もその間の関係も非常に異なった別の判…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈4

有明の主水に酒屋つくらせて 荷兮 この第三の句、古註が様々で定説がない。主水は明石主水という酒屋だというのがそのひとつ。従うべきではない。『大鏡』に「明石主水は京都六條本願寺役人にて酒屋にあらず」とある。主水と呼ばれる人物がいたとしても、寺…

トマス・ド・クインシー『スタイル』15

こうした惨事は、可能性としては全文明を脅かすものであり、このあり得べき危険はギリシャをして、その唯一の敵であるペルシャの安定さえ関心事とさせたのであるが──ギリシャと最北、西東にある未知の敵との間にある最大の抵抗勢力であるから──それはギリシ…

ブラッドリー『論理学』40

§50.私がある男の所に行き、そのふるまいについて質問すると、彼は「私は別のやり方ではなく、このようにするべきなのだ」と答えたとすると、私は彼から事実についていくつかの知識を得たことになる。しかしその事実とは創案された立場でも、仮定された行…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈3

誰そやとばしる笠の山茶花 野水* *1 連句を解釈するには、まずおおよそ一句の解釈をし、次に前句との関わりを考え、前後照らしあって微妙な情趣を醸しだすところを会得すべきである。脇句は発句より生じ、第三句は第二句より、第四第五句から揚句にいたるま…

トマス・ド・クインシー『スタイル』14

それ故、散文を社会の初期状態において文が自然に取る形、あるいは可能な形と想像する者は間違っている。天空から降りてくる真理ではなく、地から湧き上がる真理だけが非韻律的な形式を可能にした。だが、社会の初期状態においては、人間の関心を引き、重要…

ブラッドリー『論理学』39

§48.普遍的判断はすべて仮言的である、という結論は我々を再び以前からの難点に陥らせる(§6)。判断は常に真を意図するもので、真理は事実についての真を意味しなければならなかった。しかし、ここで我々が出会うのは事実に関するものとは思えない判断…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈2

笠は長途の雨にほころび、紙衣は泊〃の嵐にもめたり、わびつくしたるわび人、我さへあはれに覚えける。昔狂歌の才子此国にたどりしことをふと思出て申侍る 狂句 木枯の身は竹斎に似たる哉 芭蕉 これは前書きのある句である。前書は端書とも詞書ともいう。詩…

トマス・ド・クインシー『スタイル』13

しかし、こうした相違にもかかわらず、我々はみな、異教徒も、イスラム教徒も、キリスト教徒も政治や個人的な策謀に欠くことのできないものとして演説は行われてきている。目的が法律制定に関することだろうと、法廷でのことだろうと、同郷人に市民としても…

ブラッドリー『論理学』38

§46.ここで反対意見のために立ち止まらねばならない。「定言的と仮言的との区別は」と我々は言われる、「実際には錯覚である。仮言的判断はすべて定言的なものに還元できるし、結局のところ定言の一種に過ぎ<ない>」のだと。もしそれがしっかりと確かめ…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈1

木枯の巻 (貞享元年の八月、『野ざらし紀行』として残っている旅に出た芭蕉が、陰暦一〇月も終わりの頃名古屋に入り、以後一一月の初めにかけてなったのが『冬の日』の五歌仙だとされている。名古屋で待ち構えていたのは、必ずしも芭蕉の句に傾倒していた俳…

トマス・ド・クインシー『スタイル』12

それ故、法の適用といったことの正確な説明にでさえその歴史に赴かねばならず、我々自身の社会的必要性からの単なる類推では充分でないとすれば、芸術や知的愉しみのあり方を説明するにはそれ以上のものが必要とされるだろう。なぜ古代には風景画はないのか…

ブラッドリー『論理学』37

§44.我々は普遍的判断の共通の型に達した。我々がすぐに気づく点は、そうした判断はすべて形容詞に関わるということである。それは内容の諸要素間のつながりを主張し、出来事の系列のなかでそれらの要素が占める位置についてはなにも言わない。「正三角形…

トマス・ド・クインシー『スタイル』11

我々の論及がどうなったにしろ、スタイルが日常の実際的なものとして必然性が高まっていることを主張して結論にしたい。公的な関心が主題ならば、常にそれに見合った(文学が成長すれば)競合がなされるだろう。他のことが同じなら、あるいは同じに見えるな…

ブラッドリー『論理学』36

§42.我々は単称判断の三つのクラスを考慮し、それがどのようにしてあらわれてくる実在に観念を当てるのかを見てきた。我々は既に存在判断を先取りしてしまったので、それについては手早く扱うことができる。ここでは肯定判断に限ることにすると、すぐに言…

トマス・ド・クインシー『スタイル』10

スタイルについての議論で数多くある誤りのうちの一つは、良いものであれ悪いものであれ、スタイルが責を負うべき諸性質のリストがつくられるのだが、それはすべてを数え上げたと確信できるようなアプリオリに演繹される原理に基づくものではなく、試験的な…

ブラッドリー『論理学』35

§40.多くの難点に出会い、そのうちのいくつかは解決できたと私は信じているが、単称判断の第二の区分についての考察を終わることになる。第三の、時間における出来事の数に限定されない判断に移らねばならない(§7)。しかし、先に進む前に、しばらく時…

トマス・ド・クインシー『スタイル』9

さて、我々はこうした重要な点をフランスとの比較で見てきたので、今度は同じ点をドイツと比較して完全なものにしてみよう。比較の目的ではなく、それ自体を見ても、ドイツの散文の性格というのは十分驚きに値する対象である。我々の散文のスタイルの理想か…

ブラッドリー『論理学』34

§38.ここで我々は多分、個的な(あるいは個別のと言ったほうがいいかもしれない)事実の観念と言うときなにを意味しているのかについて言うことができる。それを決して単一の出来事に限定されない人間の名前に見つけようとしても無駄であった。個別性とい…

トマス・ド・クインシー『スタイル』8

かくして、フランス人作家には、どんなにその精神が異なっていようと、主題が異なっていようと、文の短さ、素早さ、そっけなさが見いだされる。パスカル、エルヴェシウス、コンディアック、ルソー、モンテスキュー、ヴォルテール、ビュフォン、デュクロ、み…

ブラッドリー『論理学』33

§36.過去の記憶、未来の予測は、明らかに単なる想像とは区別される。前者においては、知覚にあらわれた実在への指示がある。事実への関係を含むがゆえに真であるか偽であるかの判断をもつ。しかし、想像はこの指示を欠いている。前に見たように(第一章§…