ブラッドリー『論理学』54

§78.科学の実践は我々の長きにわたる分析がもたらした結果を認めている。科学で一度真であったものは永久に真である。科学の対象は瞬間瞬間の知覚が我々にもたらす複雑な感覚される現象を記録することにはない。これやあの要素が与えられたときにはなにか…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈17

となりさかしき町に下り居る 重五 「となりさかしき」を嶮しとしたのは曲齋であり、心得顔して卑しく騒いでいたというのは鶯笠である。高野、吉野などの奥の院へ願があって通う人が、その下の町にいて高山の寂寞とした夕暮れを見ている様子といい、「隣嶮し…

トマス・ド・クインシー『スタイル』28

そう、やはりギリシャ文学は我々が定めた点、アレキサンダーの時代に終わるのである。ギリシャの土壌、ギリシャの根から心を圧倒するような力、哲学大系、創造的エネルギーの範例となるようなものは再び現われることはなかった。想像力は死に絶え、火山は燃…

ブラッドリー『論理学』53

§76.単称判断の唯一の希望は完全な断念にある。仮言的であっても、抽象的判断は自身よりも真であることを認めねばならない。判断のクラスの最も低い位置で満足しなければならない。その要素で実在を性質づけることをやめ、一般的な形容のつながりを認める…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈16

黄昏を横に眺むる月細し 杜國 一句の情、前句との係り、解釈に及ぶまでもなく明らかである。淀の舟かなにかから三日四日ころの月を眺めたものである。いい景色の句である。古解で、「この場所は淀川堤で、人物は遊びがてらの山歩きからかえったもので、酔っ…

トマス・ド・クインシー『スタイル』27

さて、こうしてギリシャ文学全体を見渡せるような場所に辿り着いたわけだが、いくつかの説明が必要だろう。ホメロスは、ヘシオドスは、ピンダロスはどこに行ったのか、と読者は尋ねるに違いない。ホメロスとヘシオドスは紀元前一千年前、少なく見積もったと…

ブラッドリー『論理学』52

§74.実在は感覚に与えられ、現前している。しかし、既にみたように(§11)この命題を転倒し、現前し与えられたものはすべて実在である、と言うことはできない。現前は単に我々にあらわれる空間と時間における現象の部分ではない。単なるあらわれと同一…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈15

霧に舟牽く人はちんばか 野水 ちんばは跛脚である。古解に、「石混じりの場所に落葉して、霧雨に濡れたところを滑りながら行く人を見て、ちんばひくかと笑うさまだ」というのはよくない。これはただ、柳葉が力なく落ちる秋の岸で、霧のなかに舟を牽く人の姿…

トマス・ド・クインシー『スタイル』26

もし亜鈴のことをご存じなら思い起こしていただきたいが──ご存じないなら我々がお知らせしよう──鉄や鉛でできた円筒状の両端に同じ金属の球がついており、通常は緑のベーズで覆われている。だがこの覆いは、不実にも、我々の信頼しがちな指を三度に一度は引…

ブラッドリー『論理学』51

§72.もちろん、これは単なる形而上学だと言えよう。所与は所与であり、事実は事実である。いいや、我々は個的な判断と仮言的判断とを、前者は知覚にかかわり、そこに主張されている要素の存在が認められることをもって区別している。そうした区別は、あま…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈14

田中なる小万が柳落つるころ 荷兮 伊勢国山田の近くの浮洲に小万の柳がある、とあり、小万柳は摂津国田中にある、昔から伊勢の浮洲と説いているのは杜撰であるといい、そうではない、淀川筋に田中という地名はない、などと古来の注釈家は言い争っている。強…

トマス・ド・クインシー『スタイル』25

ペリクレスから<彼の>天体を構成する残りの者に目を向けると、そこには最高度に創造的で、まったく前代未聞のことを成し遂げ、それぞれに独特な文章を書いた者たちがいる。彼らには先行する範例はなく、彼ら自身がそれぞれ後の世代の範例となる運命をもっ…

ブラッドリー『論理学』50

§70.現前の知覚に与えられるものの一部分を実在だとすることはできないことをみてきた。更に進まねばならない。現前する内容すべてを性質づけることができたとしても、過去と未来をそこに組み込めないなら、それは再び失敗であろう。現在が過去とは独立に…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈13

あるしは貧にたえしから家 杜國 「たえし」は絶えしであり、「たへし」は堪へしである。貞亨元禄のころは仮名遣いも厳格ではなかったので、たえしでもたへしでも、文字に堪とも絶ともないなら、堪とも絶とも決めがたい。だから、絶えしの意味にとるものと、…

トマス・ド・クインシー『スタイル』24

かくして我々は目的に達する。この二人の中心人物ペリクレスとマケドニアのアレキサンダー(ユダヤ予言者の「力強い雄山羊」)を忘れたふりができる者はいない。二つの異なった、しかし隣り合う世紀のこの二つの<焦点>の周囲にギリシャ知性の綺羅星、銀河…

ブラッドリー『論理学』49

§68.分析判断は<それ自体で>真なのではない。それは独立して存在することはできない。個別の現存を主張することには常にそれ以上の、主張されている断片からはこぼれ落ちる内容が仮定されていなければならない。主張されていることは、他のものがあって…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈12

影法の暁寒く火を焚きて 芭蕉 影法はいまでいう影法師で、略語ではない。何々坊というのはすべて人に擬していう言葉で、しわい(しみったれ)なのをしわん坊、けちなのをけちん坊、取られるものを取られん坊、取るものを取りん坊または取ろ坊、かたゐ(乞食…

トマス・ド・クインシー『スタイル』23

さて、これらのことをギリシャ文学に当てはめてみると、この知的領域では二つの発達段階しかなかったと観察できる。多分、こうしたことに通じていない読者(通じていない読者と通じている読者を同等にもつことが影響力ある雑誌の誇りであり栄誉であろうから…

ブラッドリー『論理学』48

§66.そして、もう一つの例が、科学によって純化された精神がいかに正統的なキリスト教と合致しているか示すことになるのをご容赦願いたい。宗教的な意識では、神と人間はつながりをもった要素である。しかし、経験をふり返ってみれば、我々は区別をし、上…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈11

消えぬ卒塔婆にすご/\と泣く 荷兮 消えぬ卒塔婆を、卒塔婆の文字がいまだに消えないと解釈するのは、何丸があげた一書の解で、現実として読んでいる。鶯笠が解して、失った子供の面影が眼に残って、死んだのも本当とは思われず、もしかしたら夢ではないか…

トマス・ド・クインシー『スタイル』22

しかしながら、そのままではなく余裕をもって受け取れば、パテルクスが最初に気づいた現象、人間の才能の輩出のされ方は彼が目撃した人間の歴史において十分に確立されていると我々は認めなければならない。というのも、政治的変化にキケロの死が重なり雄弁…

ブラッドリー『論理学』47

§64.ごく一般的で、破滅的とも言える迷信は、分析は対象になんの変化ももたらさず、識別がなされるときには、分割可能な存在が扱われているのだと仮定することにある。ある事実の全体があるとき、そのある部分が残りとは関わりなく存在できると結論するの…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈10

偽のつらしと乳を絞りすて 重五 一句の意味は、乳児がいる女がどんな理由によるのかその子はいまは自分の手もとにはなく、朝夕に張る乳房をどうすることもできず、無駄に乳を絞り捨てて、これも人の情けが自分には届かないためだとつれなさを悲しみ歎く様子…

トマス・ド・クインシー『スタイル』21

かくも尊敬している我々であるが、彼の立場を見てみよう。さて、彼が我々の主題に関わっている言明(多くの独創的な言明があるなかで)に立ち戻ると、それは<彼の>経験からはまったく正しい言明であるが、我々の経験からは遠いと言わざるを得ない。彼が言…

ブラッドリー『論理学』46

§62.我々に与えられる事実は感覚にあらわれる複雑な性質と関係の全体である。しかし、我々がこの所与の事実について主張し、主張できるのは、観念内容でしかない。我々が用いる観念が目の前にある個物のすべてを汲みつくすことができないのは明らかである…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈9

髪はやす間を忍ふ身の程 芭蕉 何丸の解釈で、『伊勢物語』の「むかし心つきて色好みなる男、長岡といふところに家つくりて居りけり、そこの隣なりける宮原にことも無き女どもの、田舎なりければ、田刈らんとて、此男のあるを見て、いみじのすき者のしわざや…

トマス・ド・クインシー『スタイル』20

さて、スタイルについての訓練の機械的な体系が、これら間違った書道と同じような平準化する結果しかもたらさないなら、以前からの無知のままでいた方がずっといいことになろう。どうしようもない単調さに終わってしまうなら、昔の無頓着な簡潔さの方が歓迎…

ブラッドリー『論理学』45

§60.総合判断については時間を費やす必要はない。現実の知覚によって与えられるものを超越する際には、疑いなく推論を使っている。形容の総合は、内容のある点での同一性によって現前と結びついている。この総合は単なる普遍であり、それゆえ仮言的である…

幸田露伴芭蕉七部集『冬の日』評釈の評釈8

我庵は鶯に宿かすあたりにて 野水 一句の意味は明らかで、解釈には及ばず、その人の風流で奥ゆかしい人であることを感じるべきである。古詩に「老僧半間雲半間」というものがある。それは山住まいの人が雲と家をともにするということで、この句は鶯に家を貸…

トマス・ド・クインシー『スタイル』19

第三部 読者は疑い始めたに違いない。「どれだけ人を待たせておくのか」と。二十世紀の間のことを書くつもりであるのに、まだ六十年しか済んでいない。「<どちらに>我々は向かっているのだろうか。どの対象に向かっているのか」どちらがどの程度緊急な問題…